間一髪で死を免れテントを後にした私たちは、行き先もわからないまま街をさまよい歩きました。どこへ行っても人で溢れていて、「人道エリア(Humanitarian Zone)」(注1)と呼ばれる場所も避難してきた家族で一杯となり、入れる余地はありませんでした。ハーン・ユニスのほとんどはすでにイスラエル軍の支配下にありました。私たちは仕方なく、炎天下の中で何時間も過ごしたあと、せめて身を寄せられるかもしれないと願い、おじのテントを目指しました。灼熱のアスファルトの上を、疲れ切った体を引きずりながら5時間も歩き続け、その間の恐怖は影のように常に心にまとわりついていました。
ようやく私たちは、亡くなったいとこのバセールのテントを見つけ、わずかな救いとなりました。彼が亡くなってから、そのテントはずっと空いたままで、深い悲しみをたたえた目をした彼のお母さんが私たちを迎えてこう言いました。「さあ、ここにお入りなさい。あなたたちにはテントがないでしょう。」その言葉は、嵐の海で投げ込まれた命綱のように感じられました。私たちは死から逃れるために慌ただしく避難したので、テントや子どもたちを暑さや風から守るための最低限の物さえ持ち出せなかったのです。
私たちはその古びたテントに身を落ち着けることにしました。あちこち破れて風が入り込み、私たち自身の弱さや傷ついた心をまるで映すような姿でした。そこにはトイレもなく、とても家族が暮らせる場所とは言えませんでした。もともと若い男性が使っていたもので、家庭の気配はなく、失ったものの空しさを思わせる冷たい雰囲気が漂っていました。兵士たちがこの地域から引き揚げ、残っているかもしれない自分たちの場所に戻れるのを待ちながら、私たちはその心もとない布の“壁”の中で、最も厳しい日々を耐えました。しかし、その「耐える時間」は、山のようにそれ以上に重くのしかかってきたのです。
いちばんつらかったのは、初めてそのテントに足を踏み入れた時でした。隅々にバセールの名が刻まれているようで、空間の一つひとつに彼の笑い声が残り、彼の不在が容赦なく私たちの心を撃ちのめしました。そこに暮らすことは、まるで傷の中に住むように辛いものでした。避難をしている時に流す涙は、喪失の涙や疲れ、そして抑圧の苦さと混ざり合うのです。その日々は私がこれまで経験したことのないもので、一瞬のうちに何十年も年を重ねたように感じました。自分の家でさえも「よそ者」のようであり、テント生活も、ただの「この辛さと悪い思い出」しかないことを、私はそこで悟りました。
(注1)人道エリア(Humanitarian Zone)
イスラエル軍がガザ市の住民に速やかに退避するように呼び掛けていて、「人道エリア」では食料や水などを受け取ることができるとしている。しかしその地域は非常に混雑していて、イスラエルが主張するような安全な場所ではない。
