2025年6月11日(水)

私は、「休んだ」というより、ただ生き延びるための眠りから目を覚ましました。テントで眠るということは、決して安らぐことではありません。眠るということは、昼間の息が詰まるような暑さと、夜の身を切るような寒さとの闘いです。私たちには、体を守るしっかりとした壁も、体を包んでくれる屋根もありません。

私たちは、過酷な気候の中に閉じ込められています。体はあらゆる方向から自然の厳しさにさらされ、体が守られることはありません。眠る時には恐怖の中にいて、目を覚ます時には体のどこかが痛みます。

昼間の熱気は呼吸を苦しめ、夜の冷え込みは骨の奥まで寒さが染みわたります。この容赦のない環境は、特に女性や子どもたちにとって、多くの病気の原因となっています。

今日は朝から、母と一緒に食事の準備をしました。母は薪を使って火を起こします。ひび割れた手で薪に火をつける姿には、毎日の苦労がにじみ出ています。料理はとても質素ですが、その準備はまるで闘いのようです。私たちに道具は整っていないし、清潔な調理の場所も、水も十分にはありません。それでも私たちは料理をすることをやめません。

テントの中で調理をするというのは、砂ぼこりと灰、そして狭さと闘うことです。それは空腹な胃を満たし、疲れ切った家族を支える、ささやかな抵抗のかたちでもあるのです。

でも、いちばん大変なのは調理ではありません。そのあとの「皿洗い」です。

実際に体験してみないと、それがどれほどつらいことかを想像するのはむずかしいです。

流し台はありません。テーブルも、日陰になる場所さえありません。あるのは土の地面と、いくつかの石ころ、そして私たちが自分たちで工夫して蛇口をつけた水の入った樽だけです。私は地面にしゃがみこんで、何時間も前かがみの姿勢で、お皿を石の上に一枚ずつ並べ、洗います。洗剤は自家製ですが、その材料は刺激が強く、肌がヒリヒリして湿疹がでます。それでも私は続けます。やらなければならないからです。

一番辛いのは、この場所がまったく人目から隠れていないということです。食器を洗う場所は、人通りのすぐそばにあり、完全に外から見えている状態です。だから、どんなに強い日差しの中でも私はヒジャブを外すことができません。汗をかいて、息苦しくて、倒れそうになっても、我慢します。何故なら、身体を見せないようにする慎みは、誰かに押し付けられたからではなく、私らしくあるための大切な心の在り方なのです。私は、全身服をまとうヒジャブをかぶり、炎天下で食器を洗います。汗で全身が濡れても、苦しさを顔に出さず、じっと耐えます。日陰もなく、身を隠す所もありません。見上げれば、空が広がり、私の疲れや声にならない心の痛みを空だけがそっと見ているように思えます。

私は何時間も腰を曲げてお皿を洗います。この無理な姿勢は背中に負担をかけるので痛くてたまりません。まだ若いはずなのに、身体はもう年老いたように、慢性的な痛みに悩まされています。まるで女性の背中は、重い物を背負い、そしてかがみ、それを耐えるためあるのではないかと思えます。

お皿を一枚洗うたびに、少しずつ若さが奪われていくようです。痛みの一つひとつが、誰にも言えない苦しみの新たな物語の始まりのようです。

これは、もはや「生活」とは呼べません。
毎日が、痛みと忍耐との終わりのない戦いです。
キャンプで暮らす私たち女性は、実際の年齢よりも早く老いていきます。
私たちがかがむのは、弱いからではありません。
生きるために、そしてわずかに残された尊厳を守るために、人生がそうさせるのです。

お皿を洗うたびに、痛みや、苛立ちや、誰にも届かない沈黙を一緒に洗い流しているような気がします。
でも、洗い終えたときには頭を上げ、埃まじりの空気の中で深く息を吸い、こう自分に言い聞かせます。
「まだ大丈夫。まだ立っていられる」と。


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