2025年10月2日(木)

今日の午後、私は仕事から帰る途中、長い時間の労働で疲れ果てていました。家に帰るための乗り物を探しましたが、何もありませんでした。通りは静かで、車はまばらでした。まるで生命そのものが動きを止めたかのようでした。私は灼熱の真昼の太陽の下を歩くしかありませんでした。

大嫌いな通りを歩き始めました。私の人生で最も辛い記憶が詰まった通りなのです。

イスラエル軍が私たちを家から追い払った時に、かつてこの足で逃げたのがこの通りだからです。

この通りは、私たちの避難と恐怖と喪失感を見ていました。

今でもあの日を覚えています。震える手で持ち出したわずかな荷物を抱えながら、この道を通り抜けたあの日から、私の心は破壊された家の瓦礫の中に埋もれたままでした。

あの通りの隅々には、私の心の奥深くまでしっかりと記憶が残されています。

そこで私は、引き裂かれた遺体が瞬く間に散り散りになるのを目にしたのです。

瓦礫から引きずり出される子どもたち。二度と戻ることのない愛する者の名を叫ぶ女性たちを見ました。

家族が捕らえられ、家々が消し去られ、かつて生命が脈打っていた大地が血に染まるのを目にしたのです。

二度とこの地を見たくありませんでしたが、運命は私を再びここへ導いたのです。

ようやく通りかかった小さなロバ車を見つけると、私はそれに飛び乗りました。少しでも道連れになってくれることを願い、進むにつれ、進むごとに、押し寄せる記憶の断片ごとに、私の胸は重く辛くなりました。

すると、目の前の光景に私は打ちのめされました。通りはもはや空っぽではありませんでした。そこには避難民の家族たちの避難所ができていました。彼らは廃墟を、かろうじて避難所へと変えていたのです。

崩れた壁の間で、私は裸足で砂遊びをする子どもたち、誇りと希望だけを頼りに調理する女性たち、そして水を求めて黙々と歩く男性たちを見ました。

あの場所は生きるのに適しません。なぜなら通りというより砂漠のようだったからです。

水は届かず、小さな容器を満たすためだけに長い距離を歩かねばならないのです。

市場も店も食料もありません。飢えは日常の一部となり、渇きも日常的になってしまいました。

私はただ黙って立ち尽くしました。悲しみに押しつぶされそうでした。

わたしは、自問しました。かつては笑いと生命に満ち溢れていたこの通りは、どうして痛みの伴う荒れ果てた砂漠になってしまったのでしょうか。

どうして家はテントになってしまったのでしょうか。

どうして夢は生き延びるということになってしまったのでしょうか。

私は自分が見たものの重みを背負いながらゆっくりと歩みを進めました。そして、気づきました。

この戦争は私たちの生活だけを変えたのではありません。私たちの通りも、記憶も、そして呼吸する空気さえも変えてしまったのです。

ガザのどの道にも今、血と涙で綴られた物語が刻まれているのです。


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