私は、仕事に向かう途中で、自分の気持ちが深い海に沈むように暗く心が締め付けられるように感じました。今日は、人々に何を与えることができるだろうか。この様な過酷な状況の中で、彼らの苦しみを少しでも和らげることができるだろうか。この信じられないような状況とは、終わりのない虐殺、子どもや女性を襲う飢え、目の前で容赦なく崩れ去る命のことです。
その日は、キャンプに避難している人々に水を配る活動を始めることになっていました。現場に着くと何百人もの男女、そして子どもたちが容赦なく照り付ける太陽の下で静かに長い列を作って立っていました。その顔は目には深い痛みと苦しみ、恐怖と絶望が刻まれていました。それらは語られぬ物語です。
家や愛する人を失った避難者たちは、ぼろぼろのテントで暮らしており、本当の意味での避難所ではありません。冬の寒さと夏の酷暑、電気も清潔な水も、最低限の安全さえも保障されずに過ごしています。子どもたちは水を渇望し、女性たちは、食料や身の周りの世話が不十分なことに苦しみ、大人たちは身体的、精神的な重荷を背負うのでした。
私は、列に立つ人々を見ながら、彼らの目がこう問いかけてくるように感じました。
「どうやって生きて行けば良いのか。終わりのない苦しみの中、どうやって生き続ければ良いのか」と。私は、とても強い無力感を感じたのです。彼らの人間としての基本的な権利である、一杯の清潔な水を得ることさえも遠い夢となり、疲れた身体と心で日々を闘い続けなければならないことが今の現実だからです。
その瞬間、私はただ水を配る働き手ではないことに気づいたのです。私は、こうした状況の中で人間性が引き割かれた状態の目撃者となり、声を出せない人々の代弁者として、少しでも希望を持つ人の守人でありたいのです。その役割は単なる仕事としてではなく、もっと強い忍耐を持って、彼らの全ての苦難の中で、彼らが耐え続けられるように励ましていく責任があることを私は人として強く感じました。
彼らにとって、一滴の水はいのちに等しいのです。それは「明日は少しでも良くなるかもしれない」という小さな約束であり、暗いつらい日々の中での光となるのでした。その瞬間、苦しみ以外何もない時にこそ、1人ひとりに尊厳を与えることの意味の大切さを学ぶことができました。
