その日の朝は、私は、空腹と自分の体の重さを感じて目が覚めました。この数か月、慣れっこになってしまった空腹感は日常化していて、テントの上に昇る灼熱の太陽のように毎日起こるのです。それでも心の中では、今日、少しでも良い事が起こるのではないか、そしてこのつらさを和らげてくれる何かがあるのではないかと、いつも小さな希望を持ち続けるのです。
父は市場へ行くことを決めたのです。何かを見つけられる可能性が低いことがわかっていても行こうと決めたのでした。少しでも私たちの空腹を満たすことができたら、私たちの生活が苦しい中でも前に進むことが出来るような物が見つかれば持って帰りたいという願いを胸に、父はいつもの様に出かけたのです。
このテントでの生活でも、スパイスや、玉ねぎ、にんにくなどの香りや味をつけてくれる一番簡単に手に入れることができるはずの食材ですら、ずっと前にしか食べていません。今の私たちの食事には色も香りも味も何もありません。ただお腹を満たすためだけの一口なのです。それ以上何物でもありません。
空腹はもう、一時的な感覚ではなくなりました。それは、いつも私たちにまとわりついて離れなくなっていて、少しづつ体が弱くなり、最後は倒れてしまうものです。
私も、その日はなんだかふらふらして息苦しく、足元がよろけて、気がついた時は倒れていました。別に驚くことではありません。体に力を与えてくれそうなものを、ほとんど口にしていないからです。
食事のほとんどはレンズ豆かパスタで、後はほんの少しの食材があります。
空腹は満たされず、力もでません。砂糖は数か月前からガザに入ってきません。私の命は、こうして内側から少しづつ削り取られていくようです。
何時間が経ってから父は市場から帰ってきました。私は遠くから父の足取りを見ていました。何か良いことがあったかなと思って見ていたのですが、疲労困憊した様子がわかり、何も持っていないように見えました。
ところが突然、父は袋からある物を取り出しました。それを見た瞬間、私たちは驚きのあまり目を大きく見開きました。それは、にんにくでした!
信じられませんでした。その驚きは母も同じようでした。
父の手の中にあるニンニクは、まるで大きな宝物のようでした。疲れ切ったこのテント生活に空から落ちてきた天国からのお恵みのように思えました。
それは、ただの食材ではありませんでした。失ってきたもの、味や香りなど、たとえ小さなものでも「まだ人生には喜べるものがある」と感じられるような象徴でした。
その日の料理がどんな味のものになるかとか、にんにくの香がどのようにこのテントの空間を満たしてくれるか等を想像し始めました。まるで廃墟の中で、ほんのひと時の祝祭を迎えようとしているような気分になりました。
しかし、その喜びは長くつづきませんでした。父がそのニンニクの値段を教えてくれたからです。たった1個のニンニクに、14ドル50セントも払ったというのです。
戦闘前のあの頃は、にんにくはせいぜい1ドルもしませんでした。その差を考えるとまるで頬を強く打たれたかのような衝撃ですべてがどれほど変わってしまったのか。そして、この暮らしがどれほど耐え難いほど過酷になったのかを改めて突きつけられた思いがしました。
毎日、私たちは食べ物を買うためのお金を手に入れることが本当の闘いです。
この戦闘の中では、爆撃の音や、テントの中で凍えるような夜を過ごす過酷な日々の連続です。戦闘の前なら当たり前すぎて、深く考えることは無かったようなささやかなものが、今では遠い夢になってしまいました。それはまるで、おぼれている人が救命ボートを切実に待ち望むような心境です。
その日、私がわかったことは、物の本当の価値は、市場でつけられた値段ではなく、空腹の人の考えで決まってしまうということです。
あの一個の小さなニンニクが何よりの証拠です。戦闘は物や財産を奪うだけではありません。私たちの暮らしから味を奪い、喜びを感じる力を奪い、そしてかつては当たり前だった心の平和までも、容赦なく奪っていくのです。
