2025年6月4日(水)

この日、近所には誰もいなくなりました。

強制避難の光景は、正に私たちの街にも山火事の様に忍び寄ってきたのです。共にパンを食べ、喜びも悲しみも分かち合ってきた大切な隣人たちですが、彼らも恐怖の中で避難のために荷物をまとめ始めました

その恐怖は一過性の感情ではなく、死が目の前にやって来る前に逃げ出さなければならないという暗黙の決断でもあり、生き残るための手段でもあるのです。

私は、バジルがいなくなった心の傷がまだ癒されていません。

実際に、バジルをきちんと弔う機会さえないのです。

この戦争では死者を悼むことさえ許されず、その権利も奪われているのです。

今、残っている私の精神力を振り絞って、また荷造りを始めました。この間に自分がしたことなどを振り返ると、涙が自然とあふれてきました、家のこと、バジルのこと、自分自身のこと、いままで起きてきたこと全てを振り返りました。

何でこんなことが起きるの?

何でこんなに苦しまなければならないの?

あまりの悲しみで息がつまりそうなので、寝室の窓を開けて深呼吸をして生きている実感を得ようとしました。

そしてその時、私の心をまた悲しませる光景が目に入りました。

それは近所の幼な馴染みの人たちが荷物を車に積み込んでいたのです。

彼らの目には言葉にならない別れの悲しみが満ち溢れていました。バルコニー、ドア、そして家の思い出にしっかりと繋がり、そこから離れたくないという思いがよく伝わってきました。

その時、私の心に真実の光景がよぎりました。

私たちはこのように再び、根こそぎ移動を迫られるのです。

私たちの心は、自分たちの家として慣れ親しんでいた唯一の場所からまた引き離されるのです。

そして大切にしている人たちから、親しい友人たちから、かつての戦闘の時に暗闇を照らしていた笑声からも、再び引き離されるのです。

彼らが去っていくのをみて、とても悲しくなり心痛から泣いてしまいました。

彼らはどこへいくだろうか?それは、誰も知りませんでした。

どの家族もわからない未知の場所に向かって歩き続けるのです。

全ての別れは、埋葬ではありませんが、死を迎えることと同じくらいのことに感じます。

この界隈は、かつては深夜までコーヒーを楽しんだり、おしゃべりをしたりして活気に満ち溢れていました。

今では、かつての面影はすっかりなくなりました。

耐えられないことがあってもここに集い笑い、ここで自分の未来に向かって夢を語れるところでした。

しかし、今日、それらの全てが私の目の前から崩れ去っていきました。

私は、自分の中の静かな怒りが湧いてきました。それと共にこの状況に至らしめた世界を強く非難します。

戦闘を止める力を持ちながら、それをせずに、沈黙や傍観を選択した全ての人を厳しく非難します。

殺戮の現状を見て、目をそらしてしまうすべての人たちを非難します。

この破壊をみて、何も感じない心を持っているすべての人を非難します。

私たちには何が残されたでしょうか?

何もありません。

自分の心の一部とともに記憶のなかで瓦礫の上を歩くだけです。

ポケットに痛みを入れて、瞳の中には悲しみを抱えています。

私たちの人生に残されものは、悲しみと別れだけなのです。


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