早朝に出勤しようとした時、私の目に飛び込んできた光景は、私の心を引き割きとても悲しい気持ちになりました。子どもたちの涙、老人の苦しみ、悲嘆にくれる母親の叫びにもひるむことの無いこの残酷で決して忘れることが出来ない、不公平な冷たい世界に早く終止符を打ちたい気持ちに一杯になりました。
私たちが血を流しているこの状況を黙ってみている世界は、この戦闘が私たちの宿命であるかのように、この戦闘を止めようともしません。
戦闘が長引くにつれて、この血の川は深くなり苦しみも増し一層と深刻になります。また生活必需品となる水、食料などは遠い夢の様です。一口の水を得ることが、これほどの過酷な仕事になるとは想像もしませんでした。
その日、私は近所の老人に出会いました。彼の顔からは、深い悲しみを、背中の丸みからは長年の苦しみの重さを感じたのです。震える手で水の入ったバケツを運んでいました。
その弱々しい身体で運ぶことはやっとのことでした。まるで大地に慈しみを乞うかの様にゆっくりとした足取りで運んでいました。バケツと格闘しているその老人の姿は、これまでの戦闘を合わせた苦しみの重大さよりも意味の重さを感じたのです。そしてこの光景に耐えられませんでした。心が折れそうになり、また押しつぶされた思いです。私は、この残酷な世界を呪いたくなります。
彼を助けることが出来ない私は、無力感を感じました。慰めの言葉さえかけられず、重荷を軽くしてあげることも出来ませんでした。動かない壁のように立ち尽くし、何も出来ずにただ泣くことしかできませんでした。彼の苦しみを感じて泣くのですが、私たちも同時に苦しんでいるのです。いつもずっと押しつぶされそうになっている感じです。人間としての最低限の尊厳すら持てずに私たちは生きていることに、泣くしかないのです。
私たちは生きているとは言えません。憐みの無い世界で、毎日を生き延びるためにもがき苦しんでいるのです。そして世界は、何もしないで私たちが血を流しているのをただ見ているだけです。
水だけではなく、失望によって圧し掛かるこの重いバケツをいつまでもたなければならないのでしょうか。この残酷さを前に、いつまで私たちは沈黙をし続けるのでしょうか。
